台湾の歴史:台湾をもっと深く知るために日本統治時代を含めた歴史を学んでおこう

台湾の古い街並み

台湾はとても複雑な歴史を持つ国で、正確には「国」と呼んでいいのかどうかも難しいのですが、なぜ親日の人が多いのかなどを知るためには、台湾の歴史を把握しておくことはとても重要です。とはいえ、すべてを把握するのはとても大変。

そこでここでは、台湾の歴史について大まかな流れと、知っておくべきポイントに絞って解説していきます。もっと詳しく知りたくなったときには、台湾の歴史書がいくつも出版されていますので、ぜひそちらも手にして、台湾についてしっかりと学んでください。

目次

原住民時代

台湾は17世紀に中国から漢民族が移住し始めますが、実はそれよりも以前からマレーポリネシア系の原住民が暮らしていました。原住民は言語も文化も違う部族に分かれており、現代でもその流れが続いています。台湾政府が認定している部族数は16にも及び、台湾の人口の約2%が原住民だとされています。

この時代は部族間での争いはありましたが、統一王朝のようなものもなく、部族ごとの集落が各地に点在しているだけです。豊臣秀吉が台湾(高山国)に朝貢を求めて使者を送ったことは歴史の授業で学んだかもしれませんが、そもそも国家がないわけで、これは失敗に終わります。

江戸幕府も高山国の宗主国になるべく台湾に偵察を送ったものの、やはり「国」そのものがないためこれも失敗に終わります。

オランダ領時代

15世紀初めから17世紀初めにかけて、世界は大航海時代を迎えます。16世紀中期にポルトガル船が台湾近海を通過した際、船員が台湾を発見します。その美しさから「Ilha Formosa(美しい島) 」と叫んだことから、台湾の存在が「フォルモサ」としてヨーロッパ中に広まっていきます。

当然のことながらポルトガルは台湾に上陸しますが、そこを支配することもなく原住民と小規模な貿易を行っただけ。まず台湾を支配下に置こうとしたのがスペインで、淡水などに築城するなどして、台湾北部を占拠していきます。これに対抗したのがオランダでした。

オランダの東インド会社が、台湾の西にある澎湖を貿易の拠点とするために占拠します。そこから東インド会社と明国の争いが始まりますが、最終的にオランダは台湾を統治する権利を得ます。ただ、北部はスペインが実質的な統治を行っていますので、まずは台湾南部から専有していきました。

さらに台湾西部は海賊団である鄭芝竜が支配しており、台湾は一時的にスペインとオランダ、鄭芝竜の3つの勢力が均衡を保つことになりますが、スペインは国力の低下により台湾の維持が難しくなり、そのタイミングでオランダが台湾全域を植民地として支配下におくことに成功しました。

淡水にある紅毛城はこの時代に建てられた城で、スペインが築城したあとにオランダが再建したものです。淡水を訪れたなら、台湾の歴史を感じるためにも、ぜひ紅毛城まで足を運んでみてください。

鄭氏政権時代

明国が滅亡し、満州族による清王朝がはじまったときに、遺された明朝の皇族や家来たちは「反清復明」を掲げて南明朝を興します。ただし、南明朝は清国に鎮圧されてしまいます。そのときに拠点を失った鄭成功が、新しい拠点として台湾を選びます。

もちろんオランダ領となっていますので、そこで鄭成功とオランダの戦いが始まります。これが1661年のことで、1662年には鄭成功が東インド会社を台湾から追い出すことに成功し、鄭一族による台湾統治時代が始まります。

鄭氏政権時代には「反清復明」のために清国との戦いを繰り返しながらも、貿易や開拓により台南エリアを中心に台湾の開発を進めていきます。これが台湾発展の基礎になったこともあり、鄭成功は現代でも「開発始祖」や「民族の英雄」としてあがめられています。

清国領時代

1673年に清国内で起きた「三藩の乱」に鄭氏政権も加わるのですが、この反乱は清国に平定されてしまいます。このとき父である鄭成功から政権を引き継いでいたのが鄭経ですが、反乱に破れて台湾に帰国した1年後に病死。跡継ぎ争いが発生したこともあり、鄭氏政権は清国に無条件降伏することになります。

ここから台湾は清国の統治下におかれます。清国に支配された当初の台湾は福建省に属していましたが、1885年に福建省から独立して台湾省になります。それまでに期間に多くの漢民族が台湾に移住してくるのですが、原住民との紛争が繰り返され、さらに列強諸国の内部干渉などもあり、清国そのものが崩壊に向かいはじめます。

このままでは国が滅びるということで、清国は全土で洋務運動(富国強兵運動)を展開します。これにより台湾もインフラ整備が進み、さらに産業面でも目覚ましい発展を遂げていきます。ただし、清国の没落を食い止めることができなくなっていたところに、牡丹社事件が起きてしまいます。

日本領時代

遭難した琉球住民が台湾に漂着したとき、54名が集落牡丹社の先住民に殺害されたのが牡丹社事件で、日本政府(明治政府)がそれに対して抗議を行います。このとき、清国は責任を回避するために「化外の民(国家統治の及ばない者)」のしたことと説明。

それならばと日本政府が出兵し、台湾南部を占領します。ここの流れがいろいろとあるのですが、最終的に清国が日本に対して賠償金を支払い、琉球が日本に属することを間接的に認めることになりました。この段階では日本は台湾から撤退しています。

ところが、その後の日清戦争に破れた清国は、台湾を日本に割譲することになります。このとき、日本の統治に反対して、台湾では台湾民主国が独立宣言を行いますが、日本軍に平定されてしまい、本格的な日本統治時代が始まります。

日本統治時代は1895年(明治28年)〜1945年(昭和20年)まで。日本は莫大な開発費を台湾の発展に費やし、統治したばかりの頃は武力による制圧だったものが、ゆるやかに台湾人の同化を進めていきます。ただし、中国との本格的な戦争が始まると、同化政策を急速に進めていくことになります。

日本語の使用、日本名の使用を強制させており、これに対してはもちろん反発も起きています。この日本統治時代の話については、台湾の歴史を学ぶ上でとても大事な部分なので、ぜひご自身で勉強してみてください。きっと台湾と日本の関係について、これまでにない視点で見られるようになるはずです。

中華民国時代

1945年に日本が敗戦したことで、台湾と澎湖諸島が中国に返還されます。ただ困ったことに、中国国内ではまだ戦争が終わりません。蒋介石が率いる中国国民党と毛沢東が率いる中国共産党の争いが起き、劣勢になった蒋介石が中国国民党を率いて、戦後の台湾に乗り込んできます。

これが現在の台湾と中国の関係に繋がっているのですが、中国国民党は「自分たちこそ中国」としているので、いずれ中国本土を取り戻そうというという想いがあります(国連も1971年まで中国国民党が代表権を所持)。そして戒厳令を敷き、武力により台湾で暮らしていた人々(本省人)を押さえつけるという政策をとります。

これがあまりにも苛烈だったというのもあり、本省人の人たちは「日本統治時代はよかった」と回顧することになり、これが台湾人の親日感情につながる要因となっています。本当に日本統治がよかった面もありますが、中国国民党との相対的な比較により、日本への憧れが生まれていることも知っておいてください。

戒厳令が解除されたのは1987年のこと。それまで台湾は実質的に戦時下におかれていたことになり、国内での対立関係も強く残っていたのですが、経済発展や敵対している中国との経済面での協力などにより、国内はゆっくりと安定した状態になり、現在に至っています。

このあたりも、本省人や外省人(中国国民党について台湾に来た人たち)それぞれの視点で歴史を学ぶと、これまでと違った視点で台湾を見られるようになります。日本人からするとつい本省人の肩を持ちたくなりますが、ぜひ外省人の立場でも厳戒令下の台湾がどうであったのかも学んでみてください。

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